1985年のライブエイド。
エチオピアの飢饉救済を目的にしたライブコンサートで、衛星放送され、米フィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムとロンドンのウェンブリースタジアムからのコンサートが交互に映し出されるのを興奮しながら見ていました。
クイーン、ボウイ、次はザ・フーだ、ヒャッホー!
・・・と思いきや、ボツッ・・・・と中継が途切れてしまった時の衝撃。
いまだに鮮明に覚えています。
https://twitter.com/TheWhoJPFan/status/1061078284375515136
そんなザ・フーが(放送されなくても)実際に行ったパフォーマンスは次の4曲。
マイ・ジェネレーション (My Generation) <--衛星放送はここで中断
ピンボールの魔術師 (Pinball Wizard
愛の支配 (Love Reign O'er Me)
無法の世界(Won't Get Fooled Again)
実は、この他にも一曲、セットリスト入りするはずの曲がありました。
それはロジャー・ダルトリーのアルバム「月の影(Under A Raging Moon」収録のソロ曲「アフター・ザ・ファイヤー」(ピート・タウンゼント作曲)です。
1987年、米ラジオ局番組「Upclose」が、ロジャー・ダルトリーのソロ活動をテーマに放送しました。(画像は番組のレコード)
その中にピートのインタビューも登場し、このように話しています。
「・・・特にエチオピアなんだけど、実は、(この曲のアイディアは)ボブ・ゲドルフを助けてライブエイド用の資金集めを手伝ったジェンデン夫妻から来ている。『このお金は火消しになって、人々に食べ物を与えるだろうが、それは微々たるもの』と言ったんだ。それでライブエイドで、ロジャーに歌わせて、俺がギターを弾いて、ロジャーと俺がソロで歌えるように、俺は曲を書いたんだけど、結局、俺たちには時間がなくて、やらなかったんだ。それでロジャーに言ったのさ、『お前のアルバムに入れたらどうだい?』って」
また、この「ディープ・エンド・ライブ」の動画でも、同じように「『ライブ・エイド』のために書いた」と言っています。
それではロジャーは?というと、管理人が知る限り、昔からライブエイドには一言も触れていないようです。
どの記事を見ても、「アルバムに一曲分足りなくて、レストランで友人と話していたら、ピートが来てこの曲をくれた」「ピートのデモはいつも最終段階まで仕上がっているのに、この曲のデモはそうじゃなくて、ピートにしては珍しい」というものばかり。
「ライブ・エイド」のリハーサルは、1グループにつき20分から40分しかなかったそうで、それが当時、日本ツアー終了から間もなかったクイーンに有利に働いたとも伝えられていますが、ピートの言う「時間がなかった」はこのリハーサルの時間が足りなかったことだと思われます。
もし、事前に二人で打ち合わせが出来ていれば、後から批判に晒されたこの「ライブ・エイド」で、現実を見据えていたバンドとして評価されていたかもしれないし、評判次第で再結成も早まっていたかもしれない・・・、と思うのですが、どっちみち、中継されないんじゃ無理でしたね(笑)
更に、ザ・フーにライブ・エイド出演を説得するのは、ボブ・ゲドルフ曰く、「元妻を4人集めるようなもの」だったらしいので、新曲どころじゃなかったのかもしれません。
このライブ・エイドの後、ザ・フーが再結成ツアーを行うのは1989年、そしてこの曲「アフター・ザ・ファイヤー」をザ・フーとして演奏するのは1999年になります。
日本でもロジャー版が車の宣伝に使われたりしましたが、ピートの説明を聞くと全く違うイメージになります。
https://youtu.be/qqTjo7IAjAQ
ロジャーのソロプロモ映像。息子のジェイミーと一緒に。
1999年シカゴにて
「ライブ・エイド」で放送されなかった「ピンボールの魔術師」(音源のみ)
「ライブ・エイド」より「無法の世界」
(ロジャーは途中で入り方を間違えたまま、ピートはマイクスタンドの上を脚で跨ごうとして失敗、後ろに転ぶ。ついでにロジャーも転ぶ)