キース・ムーン


 

キース・ムーン(Keith Moon)(1946年8月23日ウェンブリー生まれー1978年9月7日没)

父アルフと母キティの間に生まれ、リンダとレスリーの二人の姉妹がいる。

3歳の頃から古い蓄音機でナ やジ ・ドといったアーティストに親しんでいたという。

ザ・フーに加わる前は、ザ・エスコート、マーク・トウェイン&ザ・ストレンジャース、ビーチ・コマーズといったバンドに所属。サーフ・ミュージックのファンであり、初期のローリング・ストーンズにいたカルロ・リトルにドラムを学んだこともあった。

1964年4月ザ・フーに加入。そのすぐ後にキット・ランバートとクリス・スタンプによるマネージメントが始る。

キースのドラマーとしての才能を語るなら、それまでドラマーの主な役割が、リズム・キープに終止していたのに対し、ある意味でリード・ボーカルよりも先行した「リード楽器」として、ピートのパワ―・コードと重なり合い、見事に引き立ちあっていることだろう。

当時のマージービートの常識を覆すようなバディ・ホリディに影響を受けた3:2 ソン・クラーベ型ラテンのリズムは唯一無二、更にステージでは並々ならぬ技量と共にショーマンシップを発揮、スティックを廻したり空中に放り投げてはキャッチ、という「芸」も披露。まさに「ドラム革命」とも呼べる、ドラマーの新たな役割を示した。

後年は、少なくともタムタム10個、ツイン・バスドラム、ツイン・ティンパニー、スネア、半ダースものシンバルを用いたムーンのドラムキットはロック史上最も大掛かりなものでもあった。

 

1978年9月7日、キース・ムーンはアルコール依存症のための処方薬の過剰摂取で亡くなった。検死の結果、32錠が体内に残り、そのうち26錠はまだ溶けていなかった。亡くなる前日の夜は、バディ・ホリーの誕生日(9月7日)を記念して毎年定例のパーティーを開いていたポール・マッカートニーが主催する、映画『バディ・ホリー物語』のプレミアパーティに出席していた。

亡くなった日の朝、キースは朝7時半に起床し、『怪人ドクター・ファイブス』を観賞。ガールフレンドのスウェーデン人モデル、アネットがステーキを焼いた後にキースは再び眠りに入るが、午後3時40分に彼女が起こそうとしたところ、もう息はなかった。救急車を呼び、アネットは人工呼吸を試みるが、既に手遅れだった。享年32歳。

遺作となったアルバム、『フー・アー・ユー』が発売されたのはそのわずか2週間前。奇しくもアルバムジャケット写真でキースが座っている椅子には "NOT TO BE TAKEN AWAY(持ち去り禁止)" と書かれており、話題になった。

キースはモンティ・パイソンの『ライフ・オブ・ブライアン』にも出演予定だった。この映画の脚本はキースに捧げられている。

キースの生涯を知る参考資料本としては、元個人秘書のドゥーガル・バトラーによる『フル・ムーン』(2012年再版)やトニー・フレッチャーの『ディア・ボーイ』がある。

特にトニー・フレッチャーはキース・ムーン伝説が誇張されていたのをいくつか暴いているが、その中で最も肝心なのは、それまで1947年とされてきた生年月日が実は1946年なのを明かしたことである。更に「ホテルのプールに飛び込んだロールス・ロイス」説についてはねつ造としているが、これについてロジャー・ダルトリーは、「詳細は記憶が曖昧になっているものの、$50,000 の請求書を払った」と反論している。

また、2011年に発行されたロック・ジャーナリスト、リッチー・ウンターバーガーによる『Won't Get Fooled Again』にも、奇行によってフーのパブリシティを高めようとしていたと伺わせる記述が出て来てくる。

この辺りはずっと脚本が来まらず延期になっているキースの映画によって明らかにされることになろう。

 

参考資料:thewho.com、Before I Get Old、Roger Daltrey~The biography、Full Moon、npr music 他

投稿日:2012年9月7日 更新日:

Copyright© <ザ・フー>The Who's Japanese Fans! , 2017 AllRights Reserved Powered by micata2.