ロジャー・ダルトリー


Roger Daltrey

ザ・フーの創設者でフロントマン。

担当楽器:ハーモニカ、打楽器、ギターなど。

歌唱方法:初期はジェイムズ・ブラウン、ハウリン・ウルフなど黒人ブルース・シンガーの影響を受ける。

レイ・ディヴィス曰く、ザ・フーの前身であるハイ・ナンバーズがキンクスの前座を務めた時は、「声質はいいが、シェファーズ・ブッシュ出身なのにアメリカン・アクセントで歌うのにイラっときた」(引用:「The Who FAQ」より)

1969年のアルバム「トミー」で独自のスタイルを確立し、その後はマスキュリンでパワフルなロック魂溢れる声でロック・ボーカリストとしての地位を強固なものにする。スタジアム時代に入ると、70年代には「ロック・ゴッド」と呼ばれるようになる。2010年にローリング・ストーン誌が行った「歴代名ボーカリスト100人」で61位。

アメリカのファンから「歌う時はあんなに分かりやすいのに、インタビューになると(コックニー・アクセントのせいで)ちっとも聞き取れない」と言われるように、歌唱時は聞き取りやすいアクセントを心がけているようだ。キース・ムーン死後のヒット曲「ユー・ベター・ユー・ベット」では、キースの後釜として参加したケニー・ジョーンズとの「共通の出身」を強調し、「心機一転」、初めてコックニー・アクセントを取り入れ、ロンドン以外のイギリスの音楽評論家にも改めてザ・フーが「ロンドンのバンド」であることを再認識させている。

難解なピートの歌詞を地に足の着いた分かりやすい解釈で、シェイクスピア劇の如く魂を揺さぶるよう、聴き手に届ける歌唱方法を特徴としている。

「無法の世界(Won't Get Fooled Again)」に代表される「プライマル・スクリーム(原初の叫び)」は、間違いなく歴史に残るロックの名演と言えるだろう。

自らの経験と直感に基づいた解釈を加えるのが得意で、オリジナルの歌詞に加えた変更がオリジナルを凌駕するようになることも珍しくない。例えば「ヤング・マン・ブルース」では、モーズ・アリソンのオリジナルにはない一言「got」を加えることで、1970年リーズ大学の大食堂で行われた伝説のライブ(後のアルバム「ライブ・アット・リーズ」)でこれを聞いた学生は自分達の立場にハッとさせられたという。ユースカルチャーであったスウィンギング・ロンドン時代から5年で、若者達はそのパワーを失ってしまったのである。

ザ・フーのコンサートでは、昔からセットリスト、構成を担当。一回のコンサートを一つの曲とみなし、最初から最後までの流れでどこに息継ぎを入れるか、どこに盛り上がりを入れるか、という具合に組み立てていくと言う。

音域:4オクターブ

得意技:マイク廻し。視力が良かった時は、ロジャーの顔めがけて客席からコインを投げつけてくる客の口元のタバコやマリファナをマイクでパシッと弾き飛ばせた。

身長:5フィート7インチ(約170cm) (諸説あるが、165cm以下ということはない。実際に会った印象では168~170cm前後)

髪:金の巻き毛で、フェミニズムとマチズモが融合するクラシック・ロック・スターとしての象徴的なイメージを作り出した最初の一人。

目:ベイビー・ブルー

【バイオグラフィー】

1944年3月1日、ロンドン、ハマースミス病院生まれ。
労働者階級出身で、イレーネ・ダルトリーとハリー・ダルトリーの第一子。二人の妹がいる。

母イレーネがロンドン大空襲でシェファーズ・ブッシュ地下鉄駅に避難中に産気づき、ハマースミス病院へ搬送され、誕生する。ロジャーのフラットは無事だったが、近隣の家は空襲でことごとく焼け落ちてしまう。

その後、疎開で母とスコットランドへ。疎開先は水道もなく、ジャガイモしか食糧のない日々を過ごす。

戦後、戻ってきた父と3歳の時に「釘隠しゲーム」をしていて、絶対に負けたくなかったばかりに釘を飲み込んでしまう。その後何度も胃の手術を受ける羽目に。

戦後の復興目まぐるしいロンドンの運河で釣りをして遊んでいたが、ある時突然「公営団地を作るから、もうここに入ってはいけない」と言われる。「いつか自分の釣り堀を持って好きなだけ釣ってやる」と誓う。成功してからは実際に、自分でデザインして湖4つをブルドーザーで開拓し、マスの養魚場と釣り堀を作ってしまう。

11歳以上の子供に課せられる選抜試験「イレブン・プラス」で優秀な成績を収め、「アクトン・グラマー・スクール」へ進学が決まる。中流階級の子息が多く、まるで他の惑星に来たかのような、歌う時でさえアクセントが全く違う環境に馴染めなかったという。

1955年、ビル・ヘイリーの「(We’re Gonna) Rock Around the Clock」でロックの洗礼を受ける。ロニー・ドネガン、エルヴィス・プレスリーに影響される。音楽教育を受けずとも演奏できるスキッフルの台頭で、音楽家への可能性を考えるようになっていく。

13歳でジョン・エントウィッスル家の近くへ引っ越す。シェファーズ・ブッシュからほんの数マイルしか離れていないが、中流階級の多い地域。学校には、制服を着用せず、指定のネクタイを切ってテッドスタイルにアレンジした服装で通っていた。

1957年、最初のギターを見よう見まねで自分で作る。休日に家族旅行に行ったブライトンで、ダンスに興じる人だかりの中心にいるのが自作のギターを抱えて歌う息子なのを知ると、父は家を抵当に入れ、学業に専念するのを期待して、エピフォン・ギターをロジャーに買い与える。本格的な音楽キャリアのスタートである。しかし、せっかく父が与えたギターはのちにピートに売られてしまう。

1959年、15歳の誕生日、反逆児だったロジャーは、喫煙を理由に退学になる。(追記:2018年の自伝では、退学の理由を「ロジャーが学校に持ち込んだモデルガンを無断で学友が撃ち、他の学友の片目を失明させたため」とある)教師に「お前は将来、世の中で何の役にも立たないだろう」と言われる。退学後も友人に会いに学校には顔を出し続ける。

板金工として昼間は工場で働く傍ら、「ザ・ディトゥアーズ(The Detours)」を結成、夜は音楽活動へ。2012年のソロ来日では、「辛い工場の日々を、週末を楽しみにすることで凌いでいた」とソロ曲「ディズ・オブ・ライト」を紹介している。最年少だったロジャーが「年を取っても働けるように」工場の経営権を購入して先輩職人たちに贈るようになるとは、誰も思わなかったことだろう。(注:ザ・ディトゥアーズ結成時期については1961年説もあるが、ロジャーとは一学年下のピートが在学中に学校で勧誘されているので、ここではロジャーの退学後まもなくという説をとる)

その後、道端で、自作のベースギターを運んでいたジョン・エントウィッスルに、自分たちも稼いでいなかったにもかかわらず、「俺たちはギャラをもらっているけど、お前たちは?」と嘘をついて勧誘。ジョンは自分と同じジャズバンド「コンフェデレイツ」に在籍していたピート(当時の担当はバンジョー)も勧誘するよう勧める。ロジャーはすでに退学なっていたアクトン・グラマー・スクールへ赴き、ピートに「俺たちのバンドに入りたいかい?」と誘う。それにも関わらず、ピートが初めて参加したギグの夜、板金工として働いていた工場で手を切ったため、ロジャーは現れなかった。手を怪我するたびにギターが弾けなくなることから、リード・ギターがロジャーからピートへ変わり、ロジャーはボーカルを担当するようになる。

ロジャーが抱いたピートの第一印象:「棒の上に鼻が乗っかってる」

「学校時代の俺の一番のぶっ飛ぶ偉業ときたら、ロジャーが「ギターは弾けるか?」と尋ねた時だ。もしあいつが「グラウンドに出てきやがれ、ぶっ飛ばしてやる!」なんて言ってたら、一発でやられていただろう。音楽はあいつに勝てそうな唯一のものだった」ーピート・タウンゼント

「ザ・ディトゥアーズ(The Detours)」のリハーサルは当初、ロジャーの家だった。メンバーはあらかじめ家に隠れておき、両親が出かけると、ロジャーが妹たちにベッドへ行くように命令し、家具を動かしてバンド仕様に。騒音に近所から苦情が来るが、「どうやったらそんなうるさい音が出せるっていうんだい、俺たち、居なかったのにさ」とごまかす。

1964年、ザ・ディトゥアーズ(The Detours)と同名のバンドの存在により、改名。「ザ・フー」始動開始。

1964年3月28日、最初の妻ジャクリーンと結婚。息子サイモンを授かる。スウェーデンのモデルとの間の息子マティアスの存在を1980年に公表、二番の妻ヘザーとの間には二人の娘と息子一人、他にグルーピーとの間にも、公表されただけで少なくとも3人の子がいる。

新婚生活を公団で始めるが、当時のポップ・スターはシングルでないと不利だった事情から、妻子を残し、一人でザ・フーの機材用バンで暮らすようになる。

1968年1月、ジャクリーンが離婚の申し立て。

1971年、アメリカ人モデルでありながら、同じハマースミス病院生まれのヘザーと再婚。

エセックスに35エーカーの土地とマナー・ハウスを購入。カントリーサイドの雇用を生み出すため、農場も経営する。

1973年、ファースト・ソロ・アルバム「ダルトリー」発表。当時無名の作曲家レオ・セイヤーの才能を見出し、殆どの曲を書かせ、自宅スタジオ他で録音。

1975年、映画「トミー」で主演。同じくケン・ラッセル監督の「リストマニア」でも主演を果たす。

1976年、ソロ3作目「ワン・オブ・ザ・ボーイズ」発表

1975年、二番目のソロ・アルバム「ライド・ア・ロック・ホース」をリリース。半身人間、半身馬というアルバムカバー写真はロジャーのいとこが撮影。

1978年、映画「レガシー」でロックスター役を演じる。

1980年、映画「マックヴィカー」主演。役のためにトレードマークだった長い髪を切る。

1981年、映画「マックヴィカー」サウンド・トラック発売。殆どがザ・フーのメンバーによる演奏。

1983年、ザ・フー解散。

1983年、BBCでシェイクスピアの「間違いの喜劇」の双子を演じる。微妙なアクセントの違いを演じ分け、視聴者には見分けがつくようにもなっている。

1984年、ソロ4作目「パーティグ・シュッド・ビー・ペインレス」を発表

1985年、ソロ5作目アンダー・ア・レイジング・ムーン」発表。アメリカでツアーも敢行。

1991年、ザ・チーフタンズと共演した「An Irish Evening: Live at the Grand Opera House」で「コンテンポラリー・トラディショナル・アルバム」最優秀獲得。しかし、2010年の公式サイト・ファン・インタビューで「まだ印税をもらっていない」と語る。

1992年、ソロ6作目「ロックス・イン・ザ・ヘッド」を発表

1994年、ニューヨークのカーネギー・ホールで50歳を祝う「ダルトリー・シングス・タウンゼント」公演。劇場始まって以来の最速チケット売り切れ記録を達成。ツアーも行う。

1997年、ベスト盤「ベスト・オブ・ロジャー・ダルトリー」発表。

1998年、「ブリティッシュ・ロック・シンフォニー」のヘッド・アクトとして2000年までアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパをツアー。オーストラリアでは交通事故のため、肩を負傷する。

2000年、ロジャーがパトロンを務める若年性癌患者の団体「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」のロイヤル・アルバート・ホールでの定期公演が始まる。

2003年、タイムズ紙「ヨーロッパのヒーロー」に選ばれる。

2005年、ベスト盤「MOONLIGHTING - The Anthology」発表。

2005年、これまでのチャリティ及び音楽活動での功績が認められ、CBE勲章を授与される。

2009年「Use It Or Lose It(使わないとダメになる)」ソロツアー

2010年11月、アメリカ版若年性癌患者のための「ダルトリー&タウンゼント・プログラム」を開始、「ティーン・キャンサー・アメリカ」を設立。

2011年3月、「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」で自身のバンドと共に「トミー」再現公演、ピートもアコースティックでゲスト出演。その後アメリカとイギリスで「トミー」ツアーを開始。

2012年、ソロ「トミー」ツアーでスクリーン・プロジェクトでミドルセクス大学の学生たちに好影響を与えた業績を称え、同大学から名誉教授に任命される。

2012年4月、ソロで「トミー&モア」日本ツアー

2012年8月、ロンドン・オリンピック閉会式におけるザ・フーのパフォーマンスを指揮する。

2012年11月、「四重人格&モア」ツアーで製作総指揮。

2014年、癌で余命わずかと診断されたウィルコ・ジョンソンとのアルバム「ゴーイング・バック・ホーム」でゴールド・ディスク獲得。サイン会の日に急に体調が悪化したウィルコのために、「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」の合間を縫って代わりにレコード店のサイン会に出席、ファンを驚かせる。同年の「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」公演ではウィルコと一緒に前座の前座を務めるサプライズ。

2014年、「ザ・フー・ヒッツ50!」ツアーの製作総指揮。

2014年、ウィルコ・ジョンソンとの競作アルバム『ゴーイング・バック・ホーム』が全英3位

2018年、ソロアルバム『アズ・ロング・アズ・アイ・ハヴ・ユー』が全英8位


【ロジャー・ダルトリー語録】
・1994年、夜通しホテルのスイートルームを壊して逮捕されたジョニー・デップ。真っ先に苦情を言ったのは隣室に居た自己破壊芸術で知られる伝説のバンド、ザ・フーのロジャー。
「10点中1点ってとこだね。時間かかり過ぎ。ザ・フーなら1分で決着つけてら」

・お騒がせ若手ミュージシャンに
「俺逹は備品を粉々にしたもんだが、自分自身を破壊している。気の毒だと思うよ。何かリアリティのある感覚にしがみ付こうとして、もがいているのが分かる。有名になるほどこの世でおかしなことはない、みんなが違う風に扱うからね」

・スマホ中毒について
「人生は下を向いて過ごすもんじゃない、上を向くもんだ!」
「今じゃ何もしていないのに忙しくて、じっくり考える時間もなければ夢みる暇もない。ちゃんと自分の内面と向き合うようにしないと、何が何やら分らなくなっちまうぞ」

・(モンティパイソンを引用した)野外フェスのお役立ちアドバイス
「俺が若造だった頃は、まだトイレット・ペーパーが発明されてなくて、カーテンで拭いたもんだ。マイ・ジェネレーションの話さ。でも今だと店に売ってるだろ、少し持ってけよ。カーテンを運んで行くよか楽だぜ」

・(キース)ムーンは物事を、俺たち全員に100%以上必死にさせていた。もっと「ゆっくり」でもなく、もっと「速く」でもない。「100%、もっと必死に」、だ。

・ロジャーが二度と演りたくないザ・フーの曲は?
『Music Must Change』
「ムーン・タイプ」は得意でも、¾拍子が出来なかったキースは外され、発売後に死亡。
02年のツアーでリハーサル、今度はジョンが死亡。

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投稿日:2017年3月1日 更新日:

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