ザ・フーのマネージメントに携わった人達
<<ザ・ディトゥアーズ(ザ・フーの前身)時代>>
ベティ・タウンゼント
1962年頃〜
ピートの母で元歌手。
功績:
送迎、ギグのブッキング。
地元のプロモーター、ボブ・ドルーズ のオーディションに合格させる。
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へルムート・ゴードン
1964年〜
ザ・ディトゥアーズ時代のドラマー、ダグ・サンドムの義妹が働いていたドアノブ工場を経営。
ビートルズの成功で、ミュージック・ビジネスに参入しようと試みる。しかし、ゴードンの誤算はダグ・サンドム以外のメンバーが未成年だったこと。
両親が契約書に連帯署名していなかったため、後にクリス・スタンプがブライアン・エプスタインの弁護士に相談し、決着をつける。
功績:
「スポーティ」さを目指す黒い革風の衣装に統一させる。
フォンタナのオーディションをブッキング。その結果、ダグ・サンドムが32歳(他のメンバーより年上)という理由でクビに。
次のマネージャー、ピーター・メイデンをバンドのパブリシストとして雇う。
<<ハイ・ナンバーズ時代>>
ピーター・メイデン
1964年〜
22歳にして既にマネージャーやパブリシストとしての経験を積むモッドのフェイス(リーダー格)。
同じ床屋に通っていたヘルムート・ゴードンにパブリシストとして雇われ、すぐにマネージャーへ。
150ポンド(一説では200ポンド)でマネージメント権をクリスとキットに譲渡。
功績:
モッズスタイルを取り入れ、「ハイ・ナンバーズ」へと改名させる。
スリム・ハーボの「ゴット・ラヴ・イフ・ユー・ウォント・イット」から曲調はそのままで歌詞を変更した「アイム・ザ・フェィス」をファンタナからリリース。B面「ズート・スーツ」はダイナミクスの「ミザリー」が基になっているが、メイデン自身がインタビューで誤った情報を与えたため、今でもしばしばショーメンの「カントリー・フール」と間違われている。
ザ・フーの現マネージャー、ビル・カービシュリーと「スティーヴ・ギボンズ・バンド」を共同マネージメント、ロジャーのゴールドホーク・レーベルからデビューさせる。
ジャズの歌姫ヘレン・メリルを母に持つアラン・メリルが日本で活躍した後、イギリスで加入したバンド「ジ・アロウズ」の初代マネージャー。「ジ・アロウズ」の名前はピーター・メイデンのザ・フーのマネージメントへの未練から来ているとアラン・メリルが自身のブログで言及。
1978年、ドラッグによる鬱状態が続き、自殺。
<<新生ザ・フー>>
キット・ランバート&クリス・スタンプ
1964年〜1973年
映像畑出身の二人がモッズバンドのドキュメンタリー映画を撮影する目的でバンドに関わるように。その後数々のアイディアを繰り出し、バンドをスターダムへ導くも、ドラッグの使用、金銭問題でバンドと袂を分かつようになる。
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マイク・ショウ
1964年〜
クリス・スタンプや現在のマネージャー、ビル・カービシュリーと同じグラマースクール出身。イーストエンドのモッドとして脚光を浴びていた。ブリストルの劇場で働いていたが、クリスに勧誘され、キットとクリスの会社「ニュー・アクション」に入社。
66年(65年説あり。ここではビル・カービシュリーの追悼文に従う)、交通事故で首から下が麻痺。
67年、トラック・レーベルでビル・カービシュリーと共にザ・フーの他、サンダークラップ・ニューマンなどのカタログに従事。
1973年、キースとピートがホテルの部屋をメチャクチャにした悪名高きモントリオールの逮捕事件では、無関係のマイク・ショウの看護師やロジャーを含む全員が逮捕されたため、「電話もかけらず、何が起きたかもわからない状態」で、寝たきりのまま一人放置された経験を持つ。
1983年のザ・フー解散時、バンドとマネージメントは功績を称え、コーンウォールに屋敷を贈る。
2012年11月17日、クリスの死の一週間前に亡くなる。
功績:
ビートルズさえも専用のPAシステムを持たなかった時代、ロックビジネスで初のプロダクション・マネージャーへ。「ハッピー・ジャック」プロモ映像の照明他、4色の集光照明装置を初めてライブに導入、照明の重要性を立証。
83年「グレイテスト・ヒッツ」編纂など。
ジョン『ウィッギー』ウルフ
1966年〜
メロウレーン総合中等学校卒業。『ウィッギー』のあだ名は、幼少時の病で無毛症になったためのカツラ着用から。
最初はウォーカー・ブラザーズ の元で働いていたが、ザ・フーと一緒の番組収録時にキース・ムーンにドラムを貸してしまい、人生で初のドラム・スキン交換という辛酸をなめる羽目に。
運転手を経てプロダクション・マネージャーへ。ピーター・ルージュ同様、キットとクリスがバンドから遠ざかり始めると、実質的なマネージャーとしての仕事をこなしていた。
功績:
ウッドストックで多くのアーティストがギャラ無しの中、ギャラを確保
「四重人格」レコーディングで使われたランポート・スタジオ建設に尽力
ドキュメンタリー映画「キッズ・アー・オーライト」の「無法の世界」で使われたレーザー光線の開発
ピーター・ルージュ
1973年〜
1968年、ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジ在学中、ザ・フーをブッキングしたが、バンドは「ドッグズ」プロモ撮影のためキャンセル。トラック・レーベルのキットのところへ出向き、猛抗議した度胸が買われ、卒業後はトラック・レーベルに勤務。バンドのツアー・マネージャーになる。「トミー」ツアーでキットとクリスが職務を遂行できなくなると、実務を引き受けていた。そのため一時はキットとクリス、ビル・カービシュリー、ピーター・ルージュの「4人のマネージャー」体制になり、それぞれの心労が絶えなかったと言われる。
功績:
ローリング・ストーンズのツアー・マネージャ、レーナード・スキナード(73年『四重人格』ツアーでオープニング)、イル・ディーヴォ(Il Divo)らをマネージメント。
2015年、ピート・タウンゼントの「クラシック四重人格」プロモーションを展開。
ビル・カービシュリー
1973年〜
イーストエンド育ち。クリス・スタンプとはグラマー・スクールの同級生。弟は英フットボール・チーム「ウエスト・ハム」のアラン・カービシュリー。
映画「ランバート&スタンプ」のテーマの一つが「時代を味方に、境界線を超える」ことだとすれば、ビル・カービシュリーも桁違いの変身を遂げた一人だろう。
反社会的環境から世界有数のマネージメント会社経営へという数奇な人生をたどる。
70年、キットとクリスのニュー・アクション・レーベルに勤務。元婦人のジャッキーはピートの以前のプライベート・マネージャー。
73年、両マネージャーとバンド間の確執が深まり、ロジャーがプライベート・マネージャーとして起用。ロジャーのソロ・アルバム製作を経てバンド全体のマネージャーに。
近年は音楽以外のドキュメンタリー、映画にもプロデューサーとして幅広く参加している。
功績:
トラック・レーベル及びニュー・アクション・レーベルとの契約解消。
ロジャーとの映像作品をはじめ、数多くのザ・フー作品にクレジットされている。あまり知られていないが、ザ・フーのアルバム・アートにも貢献している。
ザ・フーの他、ジューダス・プリースト、ジミー・ペイジなどのマネージメントにも従事。
ロバート・ローゼンバーグ
1983年〜
「モダンデザインの父」ウィリアム・モリスで働く傍ら、多くの映画スターやロック・スターに出会う。SFの古典を音楽化したジェフ・ウェインの「宇宙戦争」に関わり、音楽業界への道を進む。
83年、現マネージャーのビル・カービシュリーのオフィスへ入社、ディレクターを経て、ビル・カービシュリーとザ・フーの共同マネージャーになる。
ザ・フー、レッド・ツェッペリンなどの多くの作品にクレジットされている。
参考資料:
ダグ・サンドム著「ザ・フー・ビフォア・ザ・フー」
トニー・フレッチャー著「ディア・ボーイ:ザ・ライフ・オブ・キース・ムーン」
リチャード・ボゴヴィッチ著「ア・フーズ・フー」
the who.comニュース・インタビュー他