ザ・フー ロジャー・ダルトリー

ロジャー・ダルトリー〈インタビュー〉Say It Forward〜言葉を送る(前半)

投稿日:2018年10月7日 更新日:


10月に発売されるロジャー・ダルトリーの自伝「Thanks a lot Mr Kibblewhite: My Story」は、邦訳出版が未定ですが、最初にインタビュアーを雇い、それから書き起こしてまとめる形で執筆されたそうです。

6月に放送された「Say It Forward」のロジャーのインタビューは、本人が自身のキャリアを語り、自伝のオーディオブックを予想させる内容と話し方になっています。そこで、約40分のインタビューを書き起こしてみました。

なるべく正確を期するために、一旦、音声を全て英文で書き起こしてから日本語にしましたが、ド素人の管理人は、書き起こし用のソフトなどは何も持っておらず、地味〜にiTunesの再生バーを止めては書き、止めては書き、をひたすら繰り返しただけなので、ひょっとしたら漏れている箇所などもあるかもしれません。

実際の放送を聞きながら読んでいただければ、笑いのツボなども確認していただけます。

商品名など、日本語表記が曖昧なものはあえて伏せてあります。

長文なので、2回に分けて投稿します。後半は、74歳にして、前人未到の分野に大志を抱き、努力を重ねるロジャーが浮き彫りになっています。

出版関係の方の目にとまり、興味を持って頂き、どこかの出版社で邦訳を出版してくだされば幸いです。

実際のインタビュー音声はこのページでお聴き頂けます。

Roger Daltrey, Lead Singer of The Who

iTunesでもポッドキャストがダウンロード可能です。
https://itunes.apple.com/jp/podcast/roger-daltrey-lead-singer-of-the-who/id1388217063?i=1000413030551&mt=2

Say It Forward〜言葉を送る(前半)

レベッカ・ロススタインです。
共同司会者のレオン・ダリーと共に、毎週、私たちが好きな事の一つをして皆様をお迎えします。

それは、ありふれた人生ではない、興味深い方たちのインタビューです。

有名であったり、お金持ちであったり、そのどちらでもない方もいますが、皆様、一味違う人生を歩んだ方々です。

想像もできない高い目標を達成したり、子供の頃の夢を実際に叶えたり、そういったセレブな方々の伝記を伺います。

テレビや映画のスター、ミュージシャン、プロデューサー、コメディアン、作曲家、ロックスターといった方達ですが、それを手始めに、私たちは、起業家、医者、実業家、アスリート、そしてCEOらの驚くような道のりも探ります。

今までご視聴頂かなかった皆様にも、レオンや私と一緒にご参加くだされば幸いです。

今日のエグゼクティブ・プロデユーサーはキム・ガーナーです。
では、始めましょう。

今日、私達がお迎えするのは、伝説的な、誰もが認める「ロックンロールの神様」の一人、ロジャー・ダルトリー。

ローリング・ストーン誌による「ロックンロール最高の声」の一人として名声を得る前は、英国の労働者階級で育ちました。
そこで学校へ行き、バンド仲間となる同窓生達と出会ったのです。

史上最も影響力あるバンドの一つ、ザ・フーでリードボーカルを歌う他にも、ロジャーはソロ活動で役者としてもよく知られ、数多くのテレビ、映画、舞台に出演しています。

現在、ロジャーは、演奏やツアーに多くの時間を費やしていますが、その他にも、私と共に、慈善への情熱を分かち合い、ティーン・キャンサー・アメリカを支援しています。

大英帝国勲章を含む名誉や賞も、数知れず授与されてきました。

話を最初に戻して、ロジャーの言葉をお送りしますね。

ロジャ・ダルトリー。
多くの方たちが最も基本的な事はご存知でしょうが、全てのリスナーの皆様に確認して頂きましょう。

どこで生まれ、若い頃はどうだったのか。

あなたがどこで生まれたのか知っていますが、歴史の上で大変興味深い時期ですよね。
なので、少しお話していただければ、嬉しく思います。

私はロンドンのシェファーズ・ブッシュで、1944年の3月1日に生まれました。
V1(飛行爆弾)の空襲の最中にね。
V1がやってきて、それから次にV2(ドイツの世界初・軍事用液体燃料ミサイル)が続きましたが、V2はもっと酷かったんです、というのも、(襲来時に)聞こえなかったので。
私の母と父によれば、V1はやって来るのが聞こえたから、いつ止むか、心配するだけで済んだ。ところが、V2というのは、大爆発する。
私が住んでいた通りでは、そういう(大爆発のあった)道路があり、ロンドンの爆弾が落とされた土地のマップを見ればわかりますが、私たちの家は、約20の家からなる区画の一部だったのに、我が家の両隣は消滅してしまいました。

ですから我々は、とても、とても、ラッキーでした。

いつもよく思ったのですが、その時期を乗り切るのは、どんなにか辛かったろうか、と。

母は妊娠中で、父は遠く軍隊に入っていて、英国陸軍砲兵隊の狙撃兵でした。

その世代には驚きを隠せません。素晴らしい人たちです。

私には二人の妹がいて、一人は亡くなりました。下の妹は、32歳で乳がんで亡くなったのです。
家族にとってショッキングな出来事です。

しかし、私は大家族の出で、私の母は、4人姉妹・・、5人姉妹、いつも間違うんですが(笑)、
そして2人か3人の兄弟がいます。
ですが、その多くは亡くなってしまい、何人かは会ったことがないですね。

何て驚くような時代なんでしょう、1944年に英国に生まれるというのは。

そうですね、生まれて来るにはおそらく、最もひどい年だったかもしれません、いろんな事情で。
戦争で、1939から1944年まで配給制度を受けましたが、配給は控え目に言ってもお粗末なもので、4人家族に与えられたのは、一週間に1/4ポンドの肉(113gm)の肉だったと思います。
一週間で?

一週間です。全ての供給が乏しくて、でも戦争が終わると、1945年に、アメリカはイギリスに対する方針を変えたんです。どうしてそんなことになったのかわかりませんが、興味深い歴史の一部ですね。

ドイツは無料で国を再建できたのに、我々は、再建するのにお金を払わねばならなかったんです。
もっとひどい事に、我々は、配給をドイツと分けねばならなかった。彼らの状況は我々よりもっと悲惨でしたから。

それに対して抗議の声はありませんでした。我々は何とか乗り切ったんです。

それで、かつてはパンを一塊りだったのが、今や半分がパンで、他の半分が粉乳の混ざった塊を一つ。
1945年は何と酷かったことか。
だから私の年齢層は、とても、とても、背が低くて痩せてるし、足もガニ股だから、(その間を)豚が抜け出そうとするのを、(脚を閉じても)止められやしない(笑)

(大ウケして笑いながら)
それであなたは1944年に生まれたんですね、戦争が終わったのは1945年で。

そう、1945年に戦争は終わりました。

それで、覚えているのは何歳の頃ですか?どんな人生でしたか?戦争が終わって今や若者ですよね。

素晴らしかった。素晴らしい、本物のコミュニティーでした。みんなが貧しかった。
財政的には困窮していたが、社会的には豊かでした。

今日(こんにち)の社会とは別ですね。

どういうわけか、我々はお金には価値を置くのに、コミュニティーに関しては、しばしば蚊帳の外になってしまうようです。
人々はたくさんお金がある人を妬みます、なぜかはよく分かりませんが。
何も持たない人は、世話を必要としているのに、必要なものを手に入れるのが難しいんです。
というのも、まず、彼らが必要としているのは、彼ら自身をもう少し手助けし始めることだからです。

どうすれば解決するのかわからないけれど、私を悩ませるのは、人々が、そういう億万長者に気を揉んでいることです。
私なら気にしません。
誰かが100億円を手にし、それを使わねばならなかった、という事です。
私の場合は、お金を投資して、人々を雇わなければなりませんが。

そういった悲劇はもちろんのこと、多額のお金を持つ人々が、それに関しては本当にクリエイティブだということ。

彼らはお金儲けに執着する人々なんです。
もっと、もっと、もっと、もっと、ってね。

(ロジャーの興奮を静めるように)財政的にはリッチではなくても社会的にはリッチという
アイディアに戻りたいのですが、詳しく説明していただけますか?

そうですね、我々は地域社会で、お互いをサポートしていました。隣人をよく知っていて、とても親しくしていました。町の暮らしはとても密接だったのです。
というのも、殆どのシェアハウスの人たちが善人だったから。

戦後の住宅不足は本当に深刻で、我々の遊び場は、最高に素晴らしい冒険広場でした。なぜならそれは、爆撃で破壊された跡地だったからです。
安全・衛生上はひどいものでしたが、我々がかつて、子供の頃に遊んだような場所は、地下は水浸しで、壁は崩れ、木材の破片やガラクタがあって、男の子にとって、まさに遊ぶには最高の遊び場だったのです。

お母様達はあなた方の好きにさせていたのですか?
母親が我々を止めさせられるかって?
それこそ町ならではの事なんです。みんなが密接な関係にある場合のね。
人々が上の階の子供達や下の階の子供達を知っているような。

現在、そういう人達を誰かご存知ですか、あなたが一緒に育った人達の中で?

何人かは付き合いがあります。
私の人生はかなりあちこちしたし、みんな引っ越してしまい、繋がりを失ってしまいましたが、5歳で初めて一緒に学校へ行った一番古い友人とは
連絡を取り合っています。
我々の最初のドラマーのハリー・ウィルソンで、今でもよく連絡を取っているんです。

あなたは良い生徒だったのでしょうか?

私は、それはそれは、賢かったんです、11歳まではね。
テストを受けて、その試験で成績が良ければ、レベルの高い学校におくられたのです。
私は試験に合格したので、ハイレベルな学校に入学させられました。
同時に私は引っ越して、まさに労働者階級で、ブルーカラー一色のシェファーズブッシュから、文字どおり1マイル半先で線路を渡ったところの、チズイックの別の場所にです。
それで、学校はアクトン(グラマー・スクール)でした。直線距離にして、最初に育ったシェファーズブッシュから約4マイル(約6km)のところです。

アクトンは、いわば郊外型の人々から成っていて、そこで私の人生で初めて、上流階級の綺麗な英語と出会いました。
それは私にとって外国語のようで、私には、彼らとの共通点が何もありませんでした。

それに、私は小柄な少年で、5フィート7インチ(約170cm)、体重はおよそ7ストーン(約45kg)だったのです。

これらの学校では、初年度に一人が目の敵にされるのですが、それが常に小柄な奴なんです。(小柄だと)やり返しませんから。
なので、初年度は、私はひどく虐められていました。学校に行くのが、好きなどころか大っ嫌いでした。

それはどうやって表わしたのですか?無作法な振る舞いで?あなたはどういう行動を・・

(笑って)コントロールしたんです。
同時に私は音楽を見つけました。エルヴィスをテレビで見たんです。もちろん、我々はみんな、すぐに夢中になり、髪をびしょびしょにして後ろへ撫でつけました。
整髪料は何も買えなかったから。そして、我々はみんなエルヴィスになれると思ったのです。

そこにもう一人現れたのが、ロニー・ドネガン。
自分も「これなら出来るぞ」と思って、自分の最初のギターを作りました。当時、ギターを買うお金と言ったら相当なものでした。

初めてのギターは、自分で作ったのですか?

そうです。

どうやって?

木材で。

でも、形は?

ギターを持っている友達のところで、寸法を図りました。
それはスパニッシュ・ギターで、今、目にするようなエレキギターではありませんでした。
良い出来ではありませんでしたが、弦を6本張ってしまえば、たとえ音調が、つまりフレット・ボード上のスケールがそれほど良くなくても、・・多分、むしろチーズ・カッターに向いていたかもしれませんが、(インタビュアー、大笑い)ベーシックなコードを学ぶには十分だったのです。G、C、それにD、E、B7・・・、そして、三つのコードが弾ければ、当時、ほとんどのヒット曲が弾けました。

サウンド的には十分だったんですね。

多分、いい音だったでしょう。

それで最初のバンドのリードシンガーになるのは・・、ディトゥアーズでしたっけ・・?

いえ、ちゃんとした名前はなかったんです。
名前が必要だったのは、我々が(オーディションに)勝ったから。

でも、毎晩学校が終わると、まだシェファーズ・ブッシュに行っていました。そこではあらゆる私のストリートの友人たちや集団が
自分たちのグループを持っていました。

我々はコンクールに出て、勝ったんです。その写真を探さないとね、でもその写真が、地元の新聞に載りました。

歌えると気がついたのは、いつ頃ですか?

6歳です。英国国教会のコーラスで歌いました。

トレーニングを受けましたか?

いいえ、それだと我々には最悪になっていたでしょうね、とにかく私はロック歌手なんですから。

あなたはいたわけですよね、最終的に、音楽界で最大のことが起きようとする、まさに最前線にです、60年代の、その何年も前に・・・

(質問をさえぎって)音楽は我々の世代を救ったのです、

ブリテッシュ・インヴェイジョンの後に・・、

(そのまま耳を貸さず)10代である事にうんざりしていた世代を。

戦前の歴史を振り返ってみれば、ティーンエイジャーとして、そういう事はなかったのです。15歳までは子供扱いで、今なら14歳か15歳ですね、それを過ぎると、仕事へとほうり出されたんです。ティーンエイジャーでいる時間は全くなかった。子供であるか、大人であるかしかなかったのです。

戦争の後、音楽というのは、我々はまた、戦争神経症で強烈なショックを受けた親たちにもそれで対処していたのです。

それで気がつくのは、考えれば考えるほど、我々は両親と、今日のようなコミュニケーションは殆どなかったということです。

それゆえに、我々は自分たちでエンターテインメントを作らねばなりませんでした。もちろん集団の中で一旦起こり始めると「ムーブメント」となり、それは初めての「10代によるムーブメント」だったのです。

テディ・ボーイ、それからなんというか、ビートルズ時代があって、ローリングストーンズがブルースをやって、それから我々が第一線にいたモッズ、
その後はヒッピーですが、我々が既に、先にやっていたんですよ。そういうのが「青春もの」と認識されて、そんな風に目につかなかった頃からね。

ロックバンドや、リードシンガーのことを考えると、一番攻撃されやすいと思うんです。
あなたはあそこにいて、言わばショーをリードしているようなものですからね。
リードシンガーをやる自信は、どこから得ているのですか?

わかりません。ですが、その通り、ギタリストたちが、ロック好きのファンを最も獲得するようです。
でも、私にとって真のチャンピオンはシンガー達なのです。というのは、彼らは無防備なまま、やり続けるからです。
どこへ行こうと、朝起きたら、夜までやり続けねばならない。もし目前に2時間のショーが待ち受けていれば、軽く風邪をひいていようと、ただ起きて、ちゃんと
頑張らないといけません。

ギターリストであれば、起きた時に、二日酔いであろうが、インフルエンザであろうが、弦を変えてアンプをつければ、それでもまだ、できるのです。

ですが、シンガーにはそんな余裕はありません。

パフォーマンスするのが本当に好きだったに違いありませんね。

歌うのが大好きなんです。

それは唯一、私が完全に満たされると感じる時で、他のことを心配しない、唯一の時です。

どんな感じなのでしょうね、ロジャー、あなたは最高に記憶に残るアンセムを何曲かを歌いますよね、ロックンロール最高のアンセムです。そういうのは、どんな感じなのですか?

ああ、そういう曲を演奏できるとは、なんてラッキーだったんでしょう。素晴らしいですよ。素晴らしいことに、何年も経つのに我々はまだ健在ですし、例えば、我々は去年、南米で初めて演奏しました。
ブラジル、チリ、アルゼンチンに行ったのですが、素晴らしかったんです、私の前には、60・・・、いや、リオで、・・何人だったろうか、25万人だったかな、よくわかりませんが、聴衆の端っこはもう見えやしない。でも彼らは、我々が歌う全ての曲の歌詞を知っていたんです。その音楽が彼らにとって多くの意味を持っていたんですね。本当に謙虚な気持ちになりました。

OK、それでは少し戻りましょうか。
あなたがふたりのバンドメイト、ピート・タウンゼントとジョン・エントウィッスルと一緒に学校へ行ったのは知っていますが、キースがいつ加わったのか、私は知らないんです。

彼らは同じ学校へ行きましたが、私は彼らと一緒には学校へ行っていません。
しかし、彼らは学校ですぐ見分けがつきました。目立っていましたからね、あの二人を聴衆の中に隠すことはできません。

彼らは私の一年下で、私はその前に、既に(学校を)追い出されていたと思います。

でもどういうわけか、あなたたちはどこかで出会ったわけですね。あなたたち全員が演奏する時の刺激はどんなもので、どうやってそれが起こって・・・

(遮るように)昔、ジョンは私の家のすぐ近くに住んでいたのです。昔はよく彼に目が行ったものです。なぜなら彼はカリスマ性のある人間の一人でしたし、変な歩き方をしていたんです。殆どジョン・ウェインのようでした。

ある日、私は仕事から家に帰るところでした。元々は軍用ブーツの、鋲のついたやつで、舗道をカツカツ言わせながらね。
そして彼が私の方に向かってくるのを見たんです。明らかにベースを持っていました、4弦だったのです、6弦ではなく。彼が自分で作ったもので、私は興味をそそられ、話そうと呼び止めたのです。

それはあなたがギターを作る前ですか、それとも後ですか?

その頃までに、私はエレキギターをやり始めていて、作っていました。
私が彼に「バンドをやっているのか」と聞くと彼は、
「バンドには入っているが、トラッド・ジャズだ。ベースもやるし、トランペットも吹く」と答えました。

私は「ロックバンドに入りたいか?」と言いました。私が誰か、彼には分かっていましたから。
彼が「うん、かもね」というので、私は言いました。
「お前のバンドは何か仕事があるのかい?」

「俺たちにはあるぞ」と嘘をついたのです。
そう言ったときは、結婚式を一つこなしていましたから、そんなにひどい嘘だったわけではありませんが。

それで彼はリハーサルにやってきて、気に入ったのかどうかわかりませんが、とどまることになったのです。

それからしばらくして、3ヶ月の間に、事態は変わりました。
若いときは物事が変わるものです。

我々はアンプを一台持っていて、それを挟むようにしてアンプの左側に一人、その他にそこにもう一人、リズム・ギタリストがいました。それでジョンが
「すごく良いリズム・ギタリストを知っている」と言って、ピートを連れてきたのです。

ピートが部屋に入ってくると、大勢の中にピートを隠すことはできません。とても目立つんです。素晴らしい顔つきですから。

それに、ミュージシャンとしても、彼の才能はすぐに明らかになりました。

彼はバンジョーをトラディショナル・ジャズ・バンドで弾いていて、そのバンドではジョンがトランペットを吹いていました。
なので、彼はリズム・ギターをまるで、ある意味、バンジョーのように弾きました。
それで、ほとんど同時に、かなり独特なスタイルになったのです。

そしてピートとジョンとあなたになったのですね。

ええ、ピートとジョンと私です、我々は、最初のドラマーのハリー・ウィルソンをまだ脱退させていなかったのですが、それから別のドラマーが加わりました。

当時、その不思議な力を感じましたか?

いい気分でした。そして加わった一人一人が車のギアチェンジのようでした。

ジョンが私に加わり、ギアが入り、ピートがジョンと私に加わって、またギアが入る。
そのギアのままでいると、他のドラマーが加わったのです。

私がリード・ギタリストだった時は、歌手がいたのですが、歌手がやめてしまい、他のバンドをサポートし始めました。
私は「俺が歌って、代わりにピートがギターを弾いたらどうかな」と言いました。
そのラインアップでやっていて、あるドラマー(ダグ・サンドム)と知り合いましたが、彼は私達より年上で結婚していたので、彼の奥さんは、彼がこんな若造達といるのが気に入りませんでした。

これが3週間か4週間続き、我々はセッション・プレイヤーをドラマーに迎えていたのです。
すると驚いたことに、ステージに立つ私のすぐ前に小柄な青年がいて、赤褐色のスーツ姿で、明るい赤褐色の髪の毛に、すごく大きな茶色の目をしていて、
・・なんだか12歳のようにも見えたのですが、(笑)そのセッション・プレイヤーより上手くドラムを叩くと言うんです。

「やってもいい?」と言うので
「・・いいんじゃない?」と、
我々はセッション・プレイヤーにやって良いか、尋ねました。

それがキース・ムーンだったのです。
それはそうと、彼が叩けばドラムは際立ちます。

とにかく我々はちょうどボ・ディドリーの「ロード・ランナー」という曲を弾き始めたのですが、それは私たちの車のトップギアを見つけたようなものでした。

エンジンが焚かれたそれは、なんとロケット・カーだったのです。とにかく尋常ではありませんでした。ケミストリーはあっという間でした。

それで、あなた達はその時、16歳か17歳でしたか?

1963年ですから、ちょうど、18か19になった頃だと思います。

あなた達が働きだしたのは、その時点ですか?

我々は、クラブでパブや働いていました。

私はバンドで、工場のが何であれ、それ以上を稼いでいたのです。

では、昼は工場で、夜はバンドをやっていたのですか?

そうです。

それは大変だったでしょうね。

ええ、バンドは仕事とみなせないですから。
仕事の引けを後回しにしたりはできなかったですね。

キースムーンのことをお聞きしたいと思います。なんて綺麗な人なんでしょうか。

綺麗って何が?(笑)

ええと、キャンドルが燃えるときのような・・・

ああ、キースは信じられないほど複雑でした。彼は自閉症だったんだと思います。(訳者注:ロジャー本人が使ったautisticという言葉のままに訳しています)
ものすごく才能があって、ボキャブラリーは彼が受けた教育を大幅に上回っていたし、立ち上がってスピーチをすれば、耳を疑うようなのをやってのけました。

でも、あなた方のお父様達はまだご存命だったのですよね、あなたがバンドを始めた頃は。

ええ、ええ、そうです。

では、お父様達は、その熱狂的な始まりをご覧になって、サポートして下さったのですか?

・・私はいつもちゃんとした仕事を得られるよう、待っていました。(笑)

仕事を持たなくてはいけなかったんですね。

(耳を貸さず)でもキースは信じがたいほど複雑でした。耳に入ってくる話といえば全て、「彼がどんなに面白おかしいか」ですが、例えば、彼は本当に
ピーター・セラーズを笑わせられる、ごくわずかな人間のうちの一人でした。昔はよく、私は一緒にぶらついたものです、でも彼は、信じられないほど痛ましくもあり、もちろん依存症で、酒や薬なんかをやっていない時は、とても、とても、ふさぎこんでいたのです。かなり大変な話がありますよ。

人生は複雑だったに違いないでしょうね、ツアー中だと尚更。

ツアー中で唯一面倒だったのは、最初にドラッグが忍び寄って来た時で、その前だと、私たちはただの酒飲みに過ぎなかったのです。

1965年当時、1日に2回か、時には3回のショーをし始めると、寝ないで起きていられるように、アンフェタミンをやるようになりました。

私は2〜3回やってみましたが、それだと歌えなかったのです、喉が渇いて、唇を噛んでしまって。

それで思ったのは、二つのことが起こり得ると。
私はいい歌手でいることさえできないし、つまらない歌手になってしまうかもしれない、こんな5分と続かないバンドにいては、とね。

ですから私はやらなかったのですが、悲しいことにバンドは、音楽がだんだんと、デンマークかスウェーデンか、・・覚えていませんが、
ツアーが終わるまで早くなっていき、ギグをやったものの、彼らの演奏はそれはひどいもので、初めての欧州ツアーは悪くなる一方でした。

というのも、歌手は前面に立つのでバンドが見えないのですが、感じるのです。何曲かがひどく早くなっているのがわかって、歌詞を歌えなかったし、とてもイライラします。だから私はステージを降りて、隠していたドラッグを見つけて、全部トイレに流しました。

後半に続く

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