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ザ・フー『四重人格』北米ツアーをこう観る!

投稿日:2012年11月9日 更新日:


ザ・フーの『四重人格』ツアー発表ビデオは既に6万数千件を超えて、世界中で色んな記事にもなっている。
しかし、とっくに日本のファンにも知れ渡っているかと思っていたことが「そうじゃなかった!」のに気がつきました。
やはり私はフー馬鹿です。世界標準のフー情報と日本ではこれほど差があるものなんですね。

もし自分の目で『四重人格』公演を観る予定があればネタバレがあります。
それでもいい、という方だけ読んで下さい。

尚、当方はバンドの代弁者ではありません。
これは長い、長い、長い時間(とファンの情熱)をかけて得た知識と情報のシェアです。
これを読んで、そして出来たら実際に公演を見て、自分だけの解釈を(そして感動を)導き出して下さい。
海外で観る予定のない方は引き続き「日本でも公演して!」キャンペーン(?)にご協力下さい。

解釈その1;
・今回の『四重人格』は、「ロック・オペラ」じゃない

嘘つけ、ロックオペラだろ!?
ハイ、そうなんですけど、まず「ロック・オペラ」の前に「アルバム」をイメージして下さい。
あの、イーサン・ラッセルの白黒の写真集がついたやつです。
しかも「ダブル・アルバム」です。A、B、C、D面と表記された・・・。

それから、シングル中心だった60年代を思い浮かべてみて下さい。
モッズ達がそれを買い、聞き、踊る姿を。

「ロック・オペラ」であると同時に「ダブル・アルバム」であるのを念頭に置いて下さい。

解釈その2;
・ジミーはバンドを反映している。

解釈も何も、これはもうツアー発表ビデオで実際にチラッと言及(ネタバレ)されていることでもあります。

今回のツアーは、オリジナル・アルバムの最初のコンセプト、「アルバムの各面がバンド・メンバーを表し、ジミーという(A~Dの4面になった)『ダブル・アルバム』がバンドを反映している」、に近い解釈になっています。

歌詞で綴られるジミーの物語も複雑ですが、同時にジミーはバンドでもある。多様で全く違う個性の集まりです。
あんなにロジャーとピートの確執が繰り返しレビューや特集で語られていたのも納得するでしょう。
今思えばボックスセット、BBC制作のドキュメンタリーの時点で既にこのプロジェクトは進行していたんですね。

「愛と憎悪(Love&Hate)」ではなく、「愛と怒り(Love&Anger)」。

そして、最後に愛が全てを支配する。

「ジミー=バンド=アルバム」という図式から、今回のツアーではキースやジョンの映像がスクリーンで使われています。

ジミーを演じる役者が曲の合間にスクリーンでナレーターとして登場することはありません。

ツアー映像製作プロデューサーより。
「キースもジョンもサバイバル・メンバーであるピートやロジャーの記憶に生き、リスペクトされ、ジミーのパートの4分の2として守られている」

そう、彼等は今もこの作品に「必要不可欠」な存在。

だからこそ実際に公演を観た観客からは「こんなに美しいトリビュートは見たことがない」と大絶賛されている。
限られた曲にしかクローズアップ映像(と音源)は使われていないが、『四重人格』セットの全編を通して観客はその存在を感じるんです。

解釈その3;
・管楽器大好き!

89年の『トミー』ツアー、96~97年の『四重人格』ツアーが興行的に評価を得られていないことで、あたかもバンドが管楽器の使用を「反省」しているかのように信じていたら、それは勘違いで、そんなことが書かれた日本の雑誌は信じない方がいい。
実際ピートも気に入ってると言っています。

タウンゼント家の歴史、父クリフがアルト・サックス奏者であったこと、エレキ・ギターの登場で父の所属するフルバンド並みの音がギター一本で出せるようになったのをオーケストラ化プロジェクトのたびにピートは言ってるんです。
今回は戦前の世代との確執、戦後世代や60年代を象徴する役割を担っています。

ロジャーも『トミー』ツアーの間や、日本公演でも、「管楽器は英国にとって労働者階級の音。そしてジョンを思い出させる音色でもある」と言っています。

英国カルチャーを表現するのに、演出の言わばツボ。外せないんですよ。

実際に今回のツアーでは管楽器奏者2名で7つの管楽器を担当していますが、ベテランの彼らでも「こんなに大きくミックスしてもらったことはない」と言うぐらい、フューチャーされています。

解釈その4;
・戦後やモッズ・カルチャーをバンドを通して表現

フーのテーマは常にWho Are You、すなわち自分が何者なのか、という自我の確立です。
(この辺りが激しいパフォーマンスのみピックアップする日本の音楽業界との大きな隔たりかもしれない)

同じロック・オペラ『トミー』では、内省的な、「個人」の内なる自分探しのスピリチュアル・ジャーニー。

今回の『四重人格』ツアーの映像スクリーンでは、戦後の時代背景の移り変わり、モッズという「世代とコミュニティ」における自我の確立を、「バンドの歴史」に置き換え、「バンドというコミュニティ」で表現されたものになっています。そのため、60年代の彼らの映像がふんだんに使われているようです。

(この写真のスクリーンはロンドンの疎開か?)

何度か書きましたが、モッド・カルチャーの全盛期は60年代半ば、それに引き換え『四重人格』アルバム発表は73年。
72年の社会学者スタンリー・コーエンの唱えたモッズ対ロッカーズの報道現象「モラル・パニック」が話題になった後です。(ツアー・スクリーンでも「モッズ対ロッカーズ」ニュースのナレーションが入っているかも?)

73年のツアーが上手くいかなかったのは、ライブで使うバッキング・テープ(録音済みテープ)の不調のみが原因ではなく、オイルショックで充分な数のプレスが行きわたらなかったため。(BBCドキュメンタリーでもオイルショックの映像が入っている)
ファンが作品に触れたのはコンサートが先でアルバムが後。英国ですらモッズは過去のもの。あの写真集なしでコンサートの観客はモッドカルチャーをイメージしないといけなかった。

『さらば青春の光』映画化は79年。
ビジュアル主導社会にあって、オリジナルアルバムよりもある意味、映画が大きな役割を果たしたというピート。
しかしそれすら当時は「字幕必要論」があった。英国と米国ではアクセントが違い、当時のアメリカの観客が聞き取るのは難しかったのです。

誰も良く知らない英国サブカルチャー「モッド」をどう伝えるか?
これはこの作品が抱えるライブにおける最重要課題でもあります。

そこへ戦後60年の音楽史をテーマにしたオリンピックがあって、スウィンギング・シックスティーズが再び注目された。
バンドに風が吹いたかと思えば、アメリカではまさかの放映カットですよ。

そういう意味では、Whovember(フーヴェンバー。11月にフー作品が立て続けにリリースされる)にマイ・ジェネレーション・海外初のモノバージョンをわずか5ポンドで発売するのは大英断。
ツアー後半には『四重人格』展示会が行われるので、追い風になることでしょう。

解釈その5;
・「『死人の映像や音に頼る』ことで演奏に制約」は的外れ。

実際の公演を見ていないのに、キースやジョンの存命中ほどのバンド力がないから死者を利用しているように感じたとしたら、それは勘違いでしょう。ファンとして、今回の映像製作プロデューサーの長年のサイバー・フレンドとして、断言できます。現状に甘んじず、ひたすら最高を目指すからこそザ・フーなんです。

むしろテンポ、テンション、映像の前後を維持して繋げる演奏力が今でもあるから出来るんでしょう。

百歩譲って「既存の映像を使うことで演出上の制限に縛られ、ライブに迫力と遊びがなくなる」という前向きな批判と受け取っても、これまた勘違い。
実際に映像に演奏を合わせるのは、「5:15」と「ベルボーイ」のわずかな部分だけです。
ロジャーが映像の「入り」を指示しているが、それすら「遊び」の間(ま)があり、出来ないときはちゃんと「また遅れたな、キース!」とユーモアで切り抜け、フォローしているのがまた楽しい。

それに「『四重人格』+More」のMore部分は今までと同じで、自由で挑戦の余地があり、まさにAnyway Anyhow Anywhrer。『トミー』ツアーと同様です。

ピート・タウンゼント
ライブは実はもうライブじゃない。ライブは大抵嘘っぱちなんだよ、特に、次々新しいことが展開していくときはな。あらゆるデータが加工され、編集され、一緒くたにされるんだ。それこそレコーディングと一緒。序盤、中盤、終盤を伴った、完璧な物語だ。thewho.comより

キ—ス出演中はザックがリズムをキープ。実際の観客の歓声にも注目。

 

解釈その6;
・クライマックスは『愛の支配(Love Reign O'ver Me)』

2012年度版『四重人格』ツアーは(オリンピックと同じく)ロジャーが総製作プロデューサー。
随所で指揮を出しているのがわかる。演奏中もメンバーはロジャーを何度も注視しています。

(ロジャーのチームはフランク・サイムズを始め、西海岸に拠点のある某ミュージシャンの繋がりメンバー達、それに英国インタラクティブ・マルチメディアの権威たち)

何故そんなことを許すんだ、ピート、そんなのピートらしくないじゃんか・・・。

ひょっとして、パブリシティ権を売却したことで、もう作品に愛着がなくなっちゃたのか・・・?

だが、ツアー初日に出たラジオインタビューで全て納得でした。

ピート・タウンゼントの申し子として広く捉えられている『四重人格』だが、ライブ・パフォーマンスともなれば、タウンゼント曰く、

「それはロジャー・ダルトリーの肩にかかっている。ある程度、俺たちのやる『四重人格』のコンサート・バージョンというのは、まさにあいつのショー。俺は伴奏者さ。だがな、その丸ごと全部を背負ってあいつはステージに立つんだ。歌ってリードして、ストーリーを語りあげて、スクリーンに写る物語をまとめあげて完成しなきゃならない。スクリーンの筋書きはあいつが書いたもの。というか、俺の物語に修正を加えたんだ。だから、あいつが間違いなくこれでいい、と感じることが重要だし、そして自信を持てるところに達したんだと思うよ」

今回のツアーはいつもとは逆に、ピートがロジャーに強要(push)したもの。
(その理由は今発売中のRollingStoneマガジンインタビューにある。バレエで鍛えたライブ・パフォーマンスを見せるピートらしい抽象的な表現だが、要するに「エレキを弾くとご機嫌だぜ!」という心境に達したということか?)

『四重人格』全曲が、ギターで弾く分にはなんてことないのに、歌手にとっては困難を極める作品。
キーを下げようと、アレンジを変更しようと、ロジャーの裁量に任せてでも、ロジャーが最高の状態で、『愛の支配』を歌えるようにして欲しかったんだろう。

ピート・タウンゼント

「俺にとって本当のクライマックスは常に最後の曲、『愛の支配(Love Reign O’er Me)』だ。ロジャーと俺は現在、ほぼ孤立して一緒にそこに立っている。オリジナルのバンドだけでなく、モッズのオーディエンスや、そしてもちろん俺たちの初期のファンも全て代表してね。その中に救いを求める最も明確な「祈り」があることで、俺たちは結びつくんだ、そしてそれは、ロック・ミュージックがなんとか『最高に感情的な挑戦』を扱えたと承認してもらっているような気がする」thewho.comより

暗い過去を笑いながら朗読する自伝のオーディオブックもそうだが、何かがふっきれた感のする最近のピート。

初日のビデオを観ると、ピートがロジャーの側に寄り、ロジャーから目に見えない何か「気」のようなものを引き出すかのように、ロジャーの頭上に手を掲げる。

それに答えようとして、「カモン!」と自分を鼓舞するロジャー。

 

雨は神からの恵みーインドの導師ミーハー・ババの言葉から発したこの『愛の支配』が、ロジャーの解釈で引き裂かれ、ストリートからの現実的な叫びになり、キリスト教でいう「救い(Redemption)」を求め、会場にいる全員が祈り、連帯感を導き出す。

これこそがフーの醍醐味、最高の高揚感。

ロックンロールの崖っぷちに立ち、今も尚、史上最高のライブアクトと絶賛されるこのバンドと、ライブ会場で一緒に『Love Reign O'er Me』と拳を突き上げて歌いたい方は是非、facebookのページにもご参加下さい。「頼む!日本公演してくれ!」と常に叫んでいます。

ザ・フー公式サイトの許可と協力で、ピートのツアー・ダイアリーの抜粋を投稿して、ツアーやピートの様子のお知らせもしています。

色んな批評を読んで思いを馳せ、雰囲気を楽しめたら十分というファンもいるかもしれない。
でも、それにはザ・フーはあまりにももったいない。
今も迫力ある鬼気迫る演奏を体感させてくれるバンドです。
切に日本公演を希望します。

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