ロジャー・ダルトリー

ロジャー・ダルトリー〈インタビュー〉Say It Forward〜言葉を送る 後半

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ロジャー・ダルトリーが第二次世界大戦の空襲の真っ只中に生まれ、自身のバンド、ザ・フーをクビになるきっかけになった「ドラッグのトイレ流し」事件までを語ったインタビュー前半はこちらです。

あなたたちは流行を作り出していたのですよね、今や50年、60年に及ぶ音楽の。あなたはその、まさに、最初の時期にいたのですね。

そうですね、我々は、自分たちの前には存在しなかった業界を築いていたのです。つまり、ポップ歌手は、誰もかれもが、10分間演奏するパッケージツアーをやらされていました。でも我々は、バンドがもっと続けていって、2〜3時間(の演奏)に支払うと言うビジネスを生み出していたのです、ただ自分たちの感じるままに。それは本当にすごいことでした。

最初に(アメリカに)行ったのはアナーバーで、最初のギグをして、多分67年の初めにね、我々は500人か600人に演奏して、それからゆっくりではあるけれど確実に、当時の口コミはすごかったから、1000人に膨れあがりました。

それからモントレー(ポップ・フェスティバル)をやると、オーディエンスは2〜3千人になりました。

我々は、ハーマンズ・ハーミッツをサポートして、ツアーをやったのですが、想像できますか?(笑って)いつも想像してしまうんですよ、幼い少女たちがハーマンズ・ハーミッツのファンで、みんな12歳くらいなんですが、そこで母親と一緒に座っているんです。そこへ登場するのがこのヒッピー極まりない輩で、器材を壊し始めるんですからね。

でもそれから68年、69年になると、オーディエンスは平均して2,500から3,000人になりました。

そうして「トミー」をレコーディングすると、どういうわけかわかりませんが、歴史の偶然で、ベトナム戦争への抗議活動があって、ある意味で、「トミー」はその世代に語りかけたのです。一つの関連性があったわけですね。そして我々のオーディエンスは、一夜のうちに急激に膨れ上がりました。

アイオワ州のど真ん中(注:ウッドストック・フェスティバルのこと)に行ったんですよ、「穀物が『象の尻』より高くなっている」ところへね。
(注:映画「オクラホマ!」の劇中歌の歌詞「象の目」を替えたオヤジギャグ的言い回し)
何もありゃしません。ステージ以外、全く何もないんです。何マイル先も、何もなかったんです。

「オーディエンスはどこにへ入るんだい?」と聞けば、「心配するな、来るよ、ちゃんと来るから」と。

果たして7時になると、地平線にまさに煙霧線が巻き起こり、まるで映画のようでした。オーディエンスがやって来て、おそらく12万という人々が現れたのです、何もないところのど真ん中にね。それは全て口コミによるもので、並外れていました。

私はインディアナ州のつまらない中部に育ったのですが、覚えているんです、あなたたちをインディアナ州北部で見たことを。
それは狂気じみていて、それは・・教会のようでした。(両者笑う)
この意味、分かりますでしょうか?

変ですが、つまり、ステージから見て一番奇妙なことに見えたのは、我々がもはやお金を払ってもらえないことで、
わかっているのは誰かが多くのお金を・・
少なくとも部屋とかは確保・・・
(笑いながら二人同時に話すので聞き取れず)

100人よりも2000人の人々の前で演奏する方が、ナーバスになりますでしょう?

いいえ、私は少ない観衆の方がもっとナーバスになります、5人の方が50万人よりも。今は何の違いもないですね、私が歌う時は、求められるものを与えているのです。一人に対してであろうが、何万人であろうが、何も違いはありません。

トミーが発売されてから映画を作るまで、スケジュール的にはどうだったのですか?

アルバムが出たのは69年で、我々はそれをステージで演奏し始め、そしてもちろん、ウッドストックでもやりました。というのも我々は、それをロックオペラとして演奏していて・・、何というか、かつてそれを「誇大ロックンロール広告」と呼んでいた頃です。

インタビュアー:誇大ロックンロール広告ですか?

「大宣伝」です。誰しも大掛かりな宣伝が必要ですからね(笑)

それで我々はそれをオペラとして作り上げ、オペラハウスでヨーロッパ中を演奏して周り、ロックオペラとして確立させ、それから(ロック)オペラとしてやり始めるとすぐに、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ劇場で演奏しました。一つの断続的な音楽作品で、その人物の物語を語るからです。

それは私に影響を与えました。私はそのキャラクターを築き上げ、トミーとして一体感を持ったのです。私はトミーではありませんし、それはただの演技ですが。

そして私はこの頃に、将来の妻にも会いました。彼女は私に、それまで私が抱いたことのなかった自信を与えてくれたのです。

ご存知のように私はカーリーヘアです。カーリーヘアなのにモッドでいなければならないのは、ほとんど馬鹿げています。

それで私は自分に自信がなかったのですが、その時出会ったのがこの美しい女性で、妻に迎えたヘザーです。

そして初めて彼女が私の隣で目を覚ました時、叫んだんです、
「あなたの髪!あなたの髪!」って。(笑)
もちろん私は以前、時間をかけて、自分の髪をストレートにしていました。当時はカーリーヘアを好む者は誰もいませんでしたから。

それで当然、私がベッドに潜り込んで隠すと、彼女は「どうしちゃったの?」と言うんです。
「こうしなきゃいけなかったんだ」と私が言うと、
彼女は「いいえ、いいえ、いいえ、それ、綺麗だわ、綺麗よ」と言ったのです。(笑)

それが私の人生を変えました。私がすぐさま恋に落ちた美しい女性がそう言ってくれる前は、とても心配していました。私は最初の妻とちょうど離婚を進めているところだったので。それで私は、今、また恋に落ちてしまったことを極端に心配していたのです。(笑)

あなたは「トミー」に出演し、それからテレビや映画で数多くの役をしてきたわけですが・・

ええと、ケン・ラッセルが「トミー」の監督として選ばれました。ケンはその当時、有名だったのです。彼は本当に革新的な監督で、独創的でガッツのある監督でした。それで彼が私に「トミー」を演じるように依頼してきたのですが、私が「自分は役者じゃない。歌手だから」というと、彼は、「心配しなくていい。君なら楽勝だ」と言う。それは(「トミー」が)音楽だからで、私にとっては簡単なことでしたし、うまく行きました。

その時点で、あなたは結婚していたのですか?

結婚していました、ええ、ええ、1971年に結婚しましたから。

とにかく、映画は大成功を収めて、「トミー」撮影の終盤になると、ケン(ラッセル)が私に、次回作でフランツ・リストを演じてくれないかと頼みました。素晴らしいことに映画セットについても大いに学んだ後でしたし、とても気に入っていましたから、これはすごいと思いました。

問題は、私が本物の役者について、全く何も知らなかったことです。人生でセリフを一行も言ったことがなかったし、それに、憚りながら「リストマニア」は今では超有名なカルトフィルムではありますが、ケンは「脚本家」ではなかったのです。

そしてセリフときたらひどいもので、私はどうやったら良いセリフが伝わるのかも、わかりませんでした。ましてやひどいセリフなんて(笑)でも、あの映画の部分部分は実に魅惑的でした。

ですから、私が演技する技量を持てたのは、間違い無くその頃です。でも、私はその技を(もっと)学ばねばならなかったし、とても好きでしたから、その瞬間に決めたのです。小さなパートでも、どこかでオファーを受けたなら、ただ出向いて行き、何でもやってやろうと。それは自分にとって、自尊心の問題とは関係なく、
ただその技量が好きだから、出向いて、学んでいこうと思ったのです。それで、小さな作品もたくさんやりました。

(演技は)好きで好きでたまらなかったのですが、もう好きではないし、もうやりたくありません。

なぜですか?

このビジネスが変わってしまったからです。リアリティ番組が多くを変えてしまったのです。私が興味を惹かれるような良い映画はほとんどありませんし、もっと悪いことに、素晴らしい監督は本当に、もっと少ないのです。

あなたには素晴らしい配役もありましたが・・

そうですね、その頃には、世間で知られているような偉大な監督がいました。それに財界の人達もかつては賭けに出ていたものです。今では違うビジネスになってしまい、ちょっと決まりきって、おざなりになっている。

それで劇場には収まりたくないのです、演劇をやったことはありますが。世界中で乱行もしました、家から遠く離れて、ショーをやりながらね。それをやってお金を稼ぐ必要はないし、やりたいとも思わないのです。自由でいたいんですよ、人生でやり損ねてしまったことをするためにね、他のこともやりながら。

今、あなたの重要な人生の仕事の一部といえば、明らかに思い浮かぶものの一つに、あなたの慈善活動があると思います。ティーンエイジ・キャンサー・トラストに、本当に深く関わっていらっしゃいますが、あなたが関わるようになった背景とは?そして、何が私たちを今日へ導いたのでしょうか?

そうですね、ティーンエイジ・キャンサー・トラストは、1989年にイギリスで始まったチャリティで、だから29年前になります。

始めたのは私の医師なんですが、彼とその奥さんは両方とも医者で、ナショナル・ヘルス・サービス(国営医療制度)で働いていたので、病院へ行くと、彼らは気がついたのです、孤立するティーンエイジャーの癌患者には、大いに問題があると。

15歳、16歳、17歳が、2歳の赤ちゃんや、5歳の子の隣のベッドに寝ていることに目が留まり、これがいかに心理的な苦痛をもたらすのかに気がついたのです。

良き医者でもあった彼らは、医療の最初のルールに従いました。それは、今日ではしばしば忘れられがちですが、まず医療とは、患者を観察することなのです。

夫妻は隔離される青年やヤングアダルトを観察したのですが、彼らが多大な心理的ダメージに苦しんでいるのは、10歳以下の子供たちか、あるいは癌で死にゆく老人のいずれかと一緒にされるからなのです。ですから広い範囲で推測すると、子供たちにとってティーンエイジャーが隣にいるのは良いことではないし、ティーンエイジャーにとっても子供たちが隣にいるのは良くないし、年配者や老人にとってもティーンエイジャーが隣にいるのは良くないから、それは3者共に有益な状況になります。それでひらめいたのが、「非常にシンプルなアイディアだが、病院の中に避難所を造ろう」と。「避難所」なんです、ただ、彼ら自身のための場所があって、一緒に居られるような。

我々のアイディアはシンプルでした。ベッドやら何やら、全てが揃っている病棟を手に入れようなど、思ったこともありません。ただの場所なんです、彼らがベッドから出て、座って、他のティーンエイジャーと居られるような。

一旦始まってからわかったのは、我々に与えられたのが、ナショナル・ヘルス・サービスだということです。

というのも、イギリスでは、(アメリカと)違うシステムを我々は持っていて、全て社会医学なのですが、良い点もあれば、本当にひどい点もある。でも我々にわかったのは、(我々のやり方が)薬物治療にも大きな改善をもたらしていることです。隔離されて惨めな患者がいるよりも、むしろ心理的にハッピーな患者がいるだけで、です。

とにかく、それで、1989年に、私は後援者として関わるようになりました。我々は資金を調達し、ザ・フーもそうしたし、ピートもやりました。

我々はお金を与えたわけですが、それが10年間で1000万ポンド(約15億円)になり、病院の中に、6箇所が我々に与えられました。

でも、確か2000年だったと思うのですが、病院を取り壊すと言われ、我々がやっていたことを建設中の新しい病院の中でもやりたければ、どんな場所であろうと与えないから、スペースを買わねばならないし、病院の一部を建てねばならないだろう、と。
まさに痛恨の一撃です。

私が本気で関わるようになったのはそこからです。
なぜなら、考えたからなのです、彼らが今必要としているのは、一般の意識の高まりだと。

医師の名前は、アンドリアンとマーナ・ワトソン夫妻というのですが、私は彼らに約束しました。もしザ・フーがまた一緒にやり直すことになれば、彼らのためにチャリティ興行をやる、と。DVDやライブアルバムで集めたお金は何であれ、それはあの頃、大規模なビジネスで、大金を集める可能性があったのですが、それをやろう、と。

それで我々は2000年に復活したのです。
69年の終わりにも(注:実際は99年。言い違えたと思われる)我々は集まりました、ニール・ヤングのブリッジ・スクール(チャリティ)をするために、サンフランシスコで・・・

何年振りに集まったのですか?
断続的には(活動を)やっていたのですが、ええと、89年(の「トミー」ツアー以来)だから・・、10年振りでしょうか、それだと長いですね。96年だったか、ツアーをやりましたから、約4年ぶりですね、10年間の間に一度ツアーがあったのです。

それでザ・フーが戻ることになると、私はその公演をロイヤル・アルバート・ホールでの(慈善)コンサートに入れて、我々に加わってもらおうと、多くの人々を招きました。エディ・ベッダー、ノエル・ギャラガー、ブライアン・アダムズのような人達です。彼らが全員来てくれて、音楽業界も姿を現しました。なぜならそのイベントで、マスコミの関心が高まり、ティーンエイジ・キャンサー・トラストについて、マスコミが尋ね始めたのです。それがどういうものなのか、私が彼らに語る機会が得られました。彼らに感謝するし、感謝しなければなりませんね。我々が活動していたことや、なぜそうするのかという理由を、もし彼らが宣伝してくれなかったら、何も起こらなかったでしょうから。
しかし、彼らは理解してくれたのです、私が理解できたように。ですからとても理にかなっています。

当時はかなり革新的だったのですね。

とても革新的でした。

誰もそのことについて考えていなかったのですか?

考えていなかったですね、みんなが考えることといえば、癌の研究と、高価な薬についてでした。もっとずっと安く出来て、治療の成功という大きなメリットを引き出せることは、たくさんあるのです。それには他の見返りもあります。仕事に一層の満足感を得られることで、スタッフの虚無感が少なくて済むのです。

我々がイギリスで獲得したユニットですが、自分に言えるのは、それがクラブのようになった、ということだけですね、親御さん達がそこで落ち合えますから。なので、親御さん達はより一層満足するのです。我慢している重荷を降ろせますからね。スタッフも燃え尽きることが少なくなって満足なんです。ですから、四方八方、みんなにとって満足がいく状況です。

現実に、我々が建てたイングランド中の全てのユニットが、約300万ポンド(約4億5千万円)で運営されています。たくさんのベッドは必要ないのです。ますます外来患者向けになっていますから。必要なのはある程度のベッド数ですね、悲しいことですが、全員生き残れるわけではないので。

それが今の治療の基準なのですか?

我々の医療サービス(NHS)は、それを認めてくれています。でも、依然として我々にはお金を出しません。ですから私がやらないと・・

いえ、つまり、あなたが手がけるものはどこでも、「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」であったり、今は「ティーン・キャンサー・アメリカ」ですが、それが、この年齢に対する治療の基準になっているのですか?

それこそ、私が戦っていることなのです。

私の考えでは、このことについては、これまで口を閉ざしてきましたが、ちょうど1800年代に、「病棟では、子供達が大人の隣にいるべきではない」と認識され、パリで最初の小児病院が始まったように、「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」や「ティーン・キャンサー・アメリカ」、オーストラリアの「キャンティーン」、ここが病院システム改革のスタートだと思っているんです。思春期や青年期の人達が、病院の中で孤立せねばならないようなことは、二度と起きない、という。さあ、青年らが治療を受ける病院に区画を持とうではありませんか、彼らが一緒に過ごせるような。もっとハッピーな環境を作り出すことで、彼らが病院に行くのを一秒たりとも恐れずにすむからです。

でも、誰かがそれを言わないとならないし、誰かが始めねばならない。それを始めたのは我々だと思うし、私自身は、最終的にそういう風になると思っています。なぜなら結局、最後には、臨床医がそれを要求するだろうから。

あなたがしてきたことの評価ですけれども、あなたがここで作り上げた組織は今や世界的に知られるようになり、非の打ち所がない立派な評価を得ています。
スキャンダルも、悪い行いも見当たらないし・・・

(遮って、慎重な声で)よく気をつけないとね、何かを運営する者は誰しも、災いの種を拾う可能性が常にありますから。

そうです、我々が動かしているのはとても小さな船です。「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」のスタッフの評価は、非常に少数の人間によって行われています。「ティーン・キャンサー・アメリカ」は、今の所、わずかな資金で操業され、我々には、本当に必要とする人々を雇うお金がないのです。しかし、我々は素晴らしい支援者を得ました。クリープランドで。

この国(アメリカ)の全ての病院は、クリーブランドにある「レインボー・ベビー&チルドレンズ・ホスピタル」を訪れてはどうでしょうか。そして思春期・若年成人のためのユニットを見てください。そして言って欲しいのです、「これこそ将来、達成の必要がある姿だ」と。彼らはまったく素晴らしいし、本当に見事な仕事をしていますから。その中を歩くことで、(そのやり方が)患者に多大な効果を与えているのがわかりますよ。

そうですね。素敵ですよね。それに圧倒的に幸せで、圧倒的に悲しくもあります、凄まじい悲しみがまとわりつきますからね、子供たちを失う時は。ほら、あの映画ですが、あなたとジョン・ポール・デジョリア(ホームレスから一転し、莫大な資産を作った慈善活動家)、それに私でプロデュースして、ヘルナンが作って監督した映画です。今、あの映画の裏で、この国の全ての州の若年性癌患者を撮るのですが、今やその内の11人くらいを失い、テープの至る所で言ってるんですよね、
かくかくしかじかで亡くなった・・・

謎の3人目:あなたがしたことで提供されたものから得た、彼らの命が・・、つまり、あなたは出来ないわけです、お金では出来ない・・・
(突然3人目の共同プロデューサー?らしき人物が乱入し、3人同時に話すのでよく聞き取れませんでしたが、流れとしては「ホントにぃ〜?ロジャーがそんなに言うほど成功してないんじゃないの?」という含みを番組側が持たせているように感じます)

ロジャー:・・我々がやってきたことから気づいたのは、あれは小児癌についてであり、彼らが「治癒」と呼ぶもので、一層の成功を収めています。癌にとって大いに厄介なのは、「治癒」というのが、かなり幅広い言葉であることです。実際に、子供としては、「一時的な小康状態」でしかありません。しかし、彼らがティーンエイジャーになって、再発すれば、我々は彼らを受け入れます。ですから我々の数字というのは、ある意味で高まりますね。彼らは一度治療を受けて、それからある日、戻ってきますから。治療は一層難しくなる。ですからそれは、なんというか・・・、(深いため息をついて)ああ、がんというのは本当に失望させられるのです。

でも、あなたがこれ(チャリティ)に費やす時間は、公にはかなり控えめに伝えられていますが、あなたの心も魂も、これに捧げられています。ですから、あなたのお名前やブランドと提携している、これら全ての3つのチャリティーですが、私が思うに、あなたはものすごく手を差し伸べていらっしゃって、今日のような姿にされましたね。それで、人々が見る、あなたやあなたの人生は、明らかに「ロックスター」ではありますが、この仕事は信じられないほど満足のいくものだし、重要で、記念すべきもので、ヘルスケア・システムを変えています。そしてあなたは多くの称賛や感謝を得ていますが・・・。

(遮るように)私にとって大きな喜びであり、お金には換算出来ないごほうびも得ています。

あなたの人生に、音楽的、または個人的に影響を与えた方がいらっしゃれば、お話していただけますか。

ピート・タウンゼントは、私に影響を与えますね。彼の職業倫理はずば抜けているし、知性は飛び抜けている。時には完全に精神的に不安定だが、それが天才ってもんです。ピートには本当に感心するし、私が思うに、最高に偉大な作曲家の一人です。彼の曲を聞けば、そこで初めて、彼の音楽が評価されているのが理解できるし、どんなにすごい作曲家なのか、それに彼の頭脳の働きにも気がつくのです。ほとんど他の者がしないような事について歌うガッツもあります。
ですから、もし一人選ばなければならないとしたら、それはピートでしょうね。ピートを心から愛しています。

音楽やチャリティの他に、愛しているものは?

家にいるのが好きで、農場を歩くのも。孫達と一緒にいるのも大好きですし、鉄道模型も好きです。

お好きなんですか?

多くのロックスターのようにね。ええ、私は、テレビは特に好きではないんです。ラジオを聴くのが好きです。BBCがやっているので一つ良いのがあって、
「ラジオ4」という素敵なラジオ局があるのですが、劇や科学番組、ディベートや、哲学、書物の番組をやるんです。ですから、じっくり腰を下ろしてはいられないんですが、鉄道模型なら、他のことをしながら聴くことができます。ペンキ塗りや修繕といったことを。

お孫さん達も(鉄道模型に)夢中ですか?

ええ、大好きですよ。でも、触らせませんよ!まだダメです(笑)

では、この辺でお開きにしましょう。お越しくださいまして、有難うございました。とても素晴らしかったです。有難う、ロジャー。

(ロジャのインタビューはここで終了)

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